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季節

自分の考察・解釈・意見なので適当に流してください(/はキーワードリンク避け) 

おめでとう!カラ松は本物のナルシストになった!(または15話の因果応報説を悉く否定する考察)

(蛇足がメインです)

追伸……名前ミスってました……デブスじゃなくどブスですね……あ、あー……!

 

因果応報という言葉がありまして、これは仏教の用語で、『因果という、つまるところ原因によって当然報いが訪れる』という意味を持ちます。信賞必罰という言葉と類似していますが、こちらは漢語が元ですので宗教性は一切ありません。信賞必罰は、「良い行いには飴を、悪い行いには鞭を、使い分けよ」という意味でして、私からすると因果応報よりは説教臭くないような気がします。(自業自得はどうかな……仏/教用語だから説教臭い……)

 
で、なんで因果応報という話を急に持ち出したかというと、15話の花の精の話を見た人たちからカラ松の行為は因果応報だよ、当然の報いだよ、と反応する人がわりあい見られたことによります。私はアンチ因果応報なので、この手の意見に対して、言いたいことは百歩譲って理解してやるけど認めてはやらないぞ!というスタンスで臨んでいたのです。
 
が、しかし。
 
しかしながら、話が対比構成でなければ、それなりに因果応報を持ち出す人は少なかったのではなかろうか、とふと思いました。「美しい心の持ち主には美しい結末があるのだ」、と信じていたり、信じるほどではなくとも納得したい気持ちが誰にだってある、と思う。だから対比として、「決して美しいとは言い難い行為」を描かれると、人々の中には因果応報だと感想を述べたくなる人が現れてしまうのです。ということで、話の構成の意図、を考えるためにも、まず2人の話を分けて考えていきましょう。そして、因果応報という言葉をあの話の中で安易に使ってはいけないという結論に導きましょう。(そうです。私がアンチ因果応報論だから、認めたくないだけです。)
因果応報とは善が善を、悪が悪を引き寄せるという思考であって、チビ太のときにも因果応報だね!と言って欲しい、っていう私の我侭な意見のままに、因果応報じゃないと伝えます。因果応報じゃないんだよ。
 
そもそも、因果応報を信じたい人は子どもの頃の影響が強いと思われます。もしくは心理学的に人間は無意識に因果応報を思い描く傾向がある。うろ覚えですが、「物乞いに酷い暴言を吐いた男が数メートル先で交通事故にあった」ときに「男が物乞いに酷い暴言を吐いたから事故にあったのだ」と考える人は少なからずいるらしい。実際、その二つには何の因果関係もなくて、(それに因果/律を見出すのが仏教のいう因果応報なのですが)、ただ人は原因と結果を目に見える範囲で捉えたがる。そして、因果応報は子どもの頃に嫌というほど刷り込まれています。絵本や童話という形で。
童話というのは「善良な心を持つ人」と「悪意にまみれた人」の対比で物語が進むことが多くて、日本は特にそれが顕著です。日本の昔話なら、花咲か爺さん、舌切り雀、こぶとりじいさん。海外の童話なら、シンデレラや赤ずきん。子どもに善悪を教えるために「悪いことをすると必ず罰を受ける」話が書かれることで、無意識のうちに日本人の多くは事/象に因果関係を見がちです。
今回の15話というのはこの童話のような形を取っているけれど、おそ松さんは「わるいこたち」のアニメであって、童話のような「いいこ」にするための話の構成で進むというのは、何かしらの意図があってのことなんでしょう。現に「いいこ」たちは何の疑い用も無く、「今回の話は非常に因果応報的な物語でした」とコメントしています。「わるいこたち」の話なのに!
 
 
花咲か爺さんを例に取りましょう。あらすじはこちらからどうぞ。→花咲か爺 - Wikipedia
典型的な因果応報の物語です。何故これを取り上げたかというと、お爺さんとお婆さん以外に被害者となる動物があるからで、「おそ松さん」ではこの場合「花」になります。あの世界で被害者か加害者かはちょっと測りかねますが…。そして心優しいお爺さんたちと、意地悪なお爺さんたちの行動はほとんど一致していて、行動に悪意があるかどうか、というその一点で異なっているからです。
意地悪なお爺さんたちは「利己的で悪意」にまみれた人。
心優しいお爺さんたちは「優しく善意」にみちた人。
お金のことばかり考えて、金にならないと判断したら興味を持たず放棄してしまう人たちには因果応報論的に、罰が与えられます。
今回一番注目したいのは、意地悪なお爺さんたちが犬に一攫千金を掘り当てようとする場面です。心優しいお爺さんたちにもたらされた財宝を、羨ましく思った意地悪なお爺さんが同じく犬を買って失敗する。財宝を掘り当てられなかったあてつけに犬を殺してしまう。
 
今回のおそ松さんはこの図を完全に踏襲していて、チビ太は心優しいお爺さん、カラ松は意地悪なお爺さんに準えられています。(チビ太とカラ松が心優しいまたは意地悪かどうかというのは別問題ですので、ここでは一旦脇においておきます。)
チビ太が花に水をやったことで可愛い花の精が生まれたことと、カラ松が花に水分をやったことでドブスが生まれたことは、対比されているし、いかにも花咲か爺さんらしい。細かな部分は違いますが、かなり似ています。
「だったら因果応報じゃない?」という人がいるやもしれないのですが、絶対ありえないです。もう確実に否定しにかかります。
 
花に水をやった動機が、根付いている因果応報論の因果となりえないからです。
一般的に因果応報論の因果とは「利己的・悪意のある行為」です。悪意のある行為が悪意を引き起こす。
しかし、カラ松が花に水分を与えたのは「可愛い女の子」に会えるからではなく、「誰も手を貸してくれない可哀想な」チビ太の目の前に「よき理解者」が現れたから、自分も同じように「理解者」が欲しかったからです。ひいては「話し合える誰かを」。何故このように判断したかと言うと、兄弟たちに対してカラ松が言った「彼女は俺がいないとダメなんだ…さびしがりやなんだ」という台詞によります。5話でカラ松はチビ太に助けられていて(そして一種のシンパシーを感じて)、そして9話でチビ太を理解できずに逃げ出します。今回の話で、カラ松は助けてもらったことと理解できないことが組み合わさって、物陰から悩むチビ太を声をかけたりはせずにただじっと見守っていたのです。
そして、そんな中現れた花の精はチビ太のことをよく理解している。理解できないけれどシンパシーを感じていたチビ太に理解者が現れたのなら、カラ松にも理解者が現れるべきです。一種の嫉妬を感じます。(結局、兄弟たちに相手にされない)自分と似ている存在なのに、片方には理解者が現れている、その現状はカラ松を同じ行動に駆り立てるには十分だったといえます。結果、カラ松にとっての「よき理解者」が現れます。
外見に関して言えばカラ松の好みの範疇を超えているというか、はっきり酷い容姿だったと言えるのですが、それ以上にトド松曰く「酷い性格」はある意味カラ松にとっては「よき理解者」です。求めているものを「カラ松が理解できる言葉」で教えてくれる。それはカラ松にとって何よりも素晴らしいことです。
 
おそ松はカラ松に「何も考えないよう」に求めました。トド松はカラ松の言葉をさえぎっては「カラ松の理解できない言葉」で返しました。一松はカラ松の肯定を全て否定していきました。
ドブスはカラ松に「存在するもの」を求めました。ドブスはカラ松の言葉を聞きませんが「カラ松に傍にいて欲しい」と伝えました。ドブスはカラ松に手を上げますが、結婚という存在の肯定をしました。
更に「あなたがいないと死んじゃう!」というような意味の言葉までドブスは言います。
 
顔は悪いけど!性格も我侭だけど!しかも暴力的だけど!
顔さえ良ければカラ松の何よりも欲しいものを与えてくれた!!!
カラ松の存在を誰よりも祝福してくれる存在!!!!!
 
因果応報論は悪意に悪意がかえってくることだと言いました。だからこの話は因果応報論ではないかと、そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。
しかしながら、この物語は、(容姿に関してはカラ松の求めるものではないけれど)カラ松が今まで欲していた全てを与えてくれる存在が出てきたという点で、既に因果応報ではない!のです!
というかそもそも、「愛情」「理解者」を求める話の時点で、因果応報論では片付けきれない全てが詰め込まれていて、「愛情」や「理解者」を悪意のある行為だとか善意のある行為だとかで分類しようとするその行為が間違っている。
因果応報論は元が仏教の思想なので、道徳的なものの見方であります。(個人的には道徳という授業は存在する価値があるか?社会的規範はともかく道徳は価値観の押し付けでは???と思っているので、因果応報を道徳的とするとアンチ×アンチの塊になりますけども)。そして道徳は人への思いやりだとか愛だとか、そういうものを含んでいます。であれば、因果応報論で愛を裁くのは、道徳が道徳を裁くという意味の分からない結末を導きます。
だからこの話は因果応報論ではない。
 
***
 
別の面から見ると因果応報では?と思う場面があるかもしれないですが、早いところ潰しておきたいのは、これは「恋愛話」ではないというところです。そして「恋愛話」でないからこそ、カラ松は結婚という舞台に上がるまではドブスのために尽くして生きた。(そして恋愛というジャンルに入ると、ドブスはカラ松にとって「吐きそう」というカテゴリーに入る女性になってしまう)。
15話を恋愛話と見てしまうがために、カラ松とドブスのことを受け入れられなくて因果応報論を唱えている人は一定いるのではないでしょうか?あるいは、彼女の容姿は、カラ松にとって「不幸にも」「吐きそうな」タイプであるから因果応報論を唱えているのではないでしょうか?彼女の容姿が耐えられないものだから、因果応報と結び付けて考えないと納得できない/理解できない/受け入れられない。
チビ太と花の精はデートをします。それは花の精が何度も「デートをしよう」とチビ太に誘いかけるからです。確かにデートという言葉を聞いてカラ松が自らも同じく恋愛を求めたと考えることも出来ます。
けれど多分カラ松にとってドブスは恋愛対象ではない。「レンタル彼女」や「十四松の恋」を思い出せば分かることですが、十四松や六つ子は恋あるいは擬似恋愛において、人が変わったようになってしまいます。レンタル彼女のときのカラ松はとても行動的でしたが、では今回はどうかというと、特に行動的ではない。求められたら答えていく、いつもの姿勢です。容姿の時点で切り捨てられたのならば、「吐きそうだ」という一言で目の前からいなくなれば話は終わっていました。
(おそらくドブス側はカラ松のそういうところにつけこんだのかもしれないですね。あなたという「存在」がなければ私という「存在は」消えてしまうという、人間的な愛を求めたドブスをカラ松は拒めず愛を注ぐうちに、ドブスは恋愛的な愛に移行してしまったのかもしれない。けれどカラ松側はずっと人間的な愛を与えるつもりだった)
 
ではあの話の意味するところは何かと言えば、つまるところ「理解」「人間愛」「対話者」など上で散々言っているような、『精神的な支え』です。チビ太もカラ松も六つ子のうちの五人は取り合ってくれない、孤独な存在です。(しかも面白いことに、孤独な二人な癖してカラ松はチビ太を理解できずに拒絶しているわけです。チビ太もカラ松が分からずに5話で見放して家に帰っています。カラ松曰くハ/リネズミのジレンマです)。
(容姿さえ気にしなければ)二人とも、一番欲しかった答えを花の精によって提示された。究極のおでんであり、自分を求めてくれる人である。これを恋愛で見ようとすると、要らないバイアスがかかってしまいます。ブスに惚れられたカラ松はかわいそう。応援してくれた少女が死んだチビ太かわいそう。…そういう話ではない。
カラ松はレンタル彼女然り、美人局然り、金で恋愛が買える、更に金さえあれば絶世の美人と付き合うことが出来ると言うことを(学習しているかは怪しいけれど)身をもって知っています。けれど、理解者は金では買えませんでした。金どころか、血の繋がっている兄弟でさえ匙を投げて、ひたすら自分の好き勝手なことを言っては、カラ松にまともな態度を一つも示さずにどこかへといなくなってしまいました。
 
カラ松は!金では買えないものを!!探しています!!!
ひいては!兄弟では代わりになれないものを!!求めています!!!
 
珍しく兄弟が「あの女はやめておけ」と彼ら自身のためなのか、本当にカラ松を想ったのかは分からないけれど忠告をするのを、カラ松は聞いた上で無視します。「彼女は俺がいないとダメなんだ…さびしがりやなんだ…」(書いていて思ったんですがこれ、耳から魚が飛び出す一クール目のOPと似た構図になりましたね。)
これは恋愛感情>兄弟愛の図式ではなく、人間的な肯定をしてくれる人がドブス>兄弟だったに過ぎないのです。ただそれだけ…。
 
視聴者は無意識の間に、女性キャラクターが現れたら六つ子の誰か、あるいはイヤミやチビ太のレギュラーが好きになるものだと刷り込まれていました。イヤ代もチビ美も彼女もニャーちゃんもトト子ちゃんも、バイト先の女の子(カラ松girls)も、みんな恋愛感情と結びついていたからです。
だから今回の話を見て「また悲恋だ」もしくは「カラ松は因果応報だ」と思うのはある意味当然の流れかもしれません。だって恋愛せずに女の子が出てくるとは思わないもんね!
 
***
 
最後に因果応報を持ち出すであろう理由に、カラ松の行動が挙げられると思います。
チビ太を心配していたはずが、自分も同じように枯れた花に水をやろうとする。→これは先に説明したとおりですし、チビ太に理解者が現れた時点でカラ松は不要となりました。
チビ太は水をやっていたのに、カラ松は「何の液体か分からないもの」をやる。(ほんとお前何を求めていたらそうなるの?)
この的外れな、空回りな行動を因果応報の「悪」と見るのはいささか難しいはずです。
人は花や植物に対して水をやるというときにおおよそ透明に近い水を用意すると思います。少なくとも泥水やドリンク類ではなく、人間が飲んでも差し支えない程度の水です。子どもでも水をやれと言われて、持っていたオレンジジュースを花にやることはほとんどないでしょう。なのに、カラ松は躊躇いもなしに「何の液体か分からないもの」を与えました。
無知で「謎の液体」を与えるのは「悪意」でしょうかと問われると、難しい問題だなぁと思うのですが、でもカラ松がその「謎の液体」を与えても大丈夫だと信じきっていたのなら、これは「悪」ではないと思います。(この問題はあまりに難しい。道端に落ちているゴミに気づきながら捨てなかった人と、気づくこともなく通り過ぎた人のどちらが悪いかと問われるくらい難しい…)。
(でも考え方としては悪くないかもしれない。チビ太の優しさは透明で、カラ松の優しさは濁っている。優しさと言うか人に対しての対応というほうが近いだろうし、透明はごく一般的な優しさで、濁るほど離れていく)。
 
物事の事象に結果と過程があるとすれば、カラ松が「謎の液体」を与えるという結果には、過程があるはずです。
チビ太の優しさは一般的に社会の中で培われたのだとすれば、カラ松の優しさは松野家の中で培われたのだと考えるより他ありません。つまり、カラ松は六つ子や両親から受け取った反応をそのままに人に行っていることになります。考えてみるとカラ松は人の言葉をやけに素直に受け取ってしまう癖があって、「イタい」という言葉を「痛い」としか受け取れない人間です。ならば普段、兄弟がカラ松にする”優しさ”をカラ松は本当のことだと信じているに違いないし、兄弟が当然のようにする行為であればカラ松はそれが社会の常識だと受け取ってしまいかねないのです。
カラ松という結果が生まれたのは、兄弟という過程があったからです。
 
そしてこの結論は、このように導くことが出来ます。
六つ子がカラ松に聞く耳を持ってもらえなかったのは、カラ松が原因ではなく、松野家の兄弟が原因である、と。
 
そうすると因果応報論は破綻します。因果応報とは、本人の行いが本人にかえってくるからです。
ただし、万一、カラ松が生まれながらにして枯れた花には泥水を与えるのが当然だと言う思想の持ち主ならば、トド松たちの言うとおり彼はサイ/コパスであるでしょう。こうなっては因果応報論は前世の行いだとか、サイ/コパスという生来のものであるとかになり、この場合、因果応報だと落ち着けるのはある意味問題なような気もします。
 
***
 
仮にこれが因果応報だと考えたとして、では「おそ松さん」の世界でたった一話だけで因果応報論が適用されるかというと、それは少し違うといえます。何故ならあの話は時系列がバラバラらしいところはあるものの、流れに沿って話が進んでいくからです。
そうすると話の中では報いがなかった者たちも、近い将来その報いを受けることになります。例えば、トド松に対して過剰に制裁を加える兄弟たち。おそ松、チョロ松、一松……(制裁が加えられず、いまだ因果応報というふうになっていない兄弟を挙げてみました。こいつは違う!こいつがいるだろ!等ございましたらどうぞ)。
(けれどあまり制裁されるような話が思いつかないわけです)
 
***
 
で、因果応報じゃねぇよ!!!!!!!と主張しまくっている15話ですが、まだ謎が残っています。そうです、話の構成です。
 
なぜ、チビ太と対比させてカラ松を描いたのでしょうか?
なぜ、因果応報のように見せかけて描いたのでしょうか?
 
感想の中でも何度か「花咲か爺さん」や「おむすびころりん」を連想している人がいたようで、意図した話の構成だったように思います。(だって最後、結婚式には二人だけで、残りはチビ太のもとに行くんですよ!孤独だったはずのチビ太のもとには、カラ松の同胞がいて、彼らはカラ松を理解せずにチビ太をなんとなく理解してあげるんですよ!!贔屓目に見すぎているけど、えげつないよ!!!因果応報論を否定したのであの最後は釈然としないというか胸糞悪い終わりなんだよ!!!!)
 昔話は大抵、良い人たちが幸せに暮らしましたが、一方その頃悪い人たちは報いを受けました、という悪い人たちの最後で締めくくられるわけです。これはやっぱり因果応報などの説教臭さを昔話が性質として持っているからで、この話も同じく、カラ松が無理やり強迫されて結婚する終わりとなっている。で、愛情を受けすぎたであろう最早花とはいえない醜悪な植物が町を覆いつくそうとしているカットが見られます。
 
↓以下ちょっと脱線↓
あの醜悪な植物が無害ということは出来なさそうで、住人の一部は被害を受けていそうです。ギャグアニメ自己責任アニメですので次週には元通りっぽいけれど。
どうでもいいけど、「なごみのおそ松」と同じ感じなんですよ。結婚を迫られたわけではないけれど、「なごみのおそ松」ではカラ松は殺されていて、兄弟の誰も彼の死を悲しまないんですね。で、あの後兄弟はとても楽しそうになごやかなムードになる一方で、多くの人たちが犠牲になっているわけです。カラ松が不幸にあり、かつ、残りの5人が幸せそうにすればするほど、周囲への被害が尋常じゃないんです。
↑脱線終わり↑
 
正直あれを自己責任系としてもギャグとしてもシリアスとしてもなんでもいいです。でも話の構成が妙に「いいこ」に向けたものっぽいところがすごく気になっていて、しかも「おそ松さん」ってすごく視聴者を見ている感じがして。
でも一つだけいえるのは、あれを自業自得や因果応報としてみるの、絶対私は認めないからな!!!!ってことです。
 
蛇足
 これを因果応報ではなくて、花は彼らの精神を反映しているのだ、としているなら話が面白いほうに解釈できるかもしれません。
彼らの求めるものが形となって現れたものが花の精であり、ドブスであるのです。彼女たちが欲するものは、チビ太とカラ松の悩みを解放するものであり、彼女たちの外見は悩みへの純粋性を表していると考えて見ます。
そうすると、おでんを求めるチビ太の心はまっすぐで美しく、カラ松の場合、存在を必要として欲しいという思いはどこか屈折していて醜い。そう考えるなら、花の精はチビ太の悩みが解決されたら当然消えてしまうし、カラ松の悩みは兄弟がドブスよりもカラ松を必要としない限り消えることはない。
しかもカラ松はドブスと結婚してしまいました。結婚式を迎えた瞬間、彼は本物のナルシストになってしまった。醜悪に自分を求める自分と、一つになってしまったのです。そしてそれを、誰も祝福しませんでした。チビ太は悩みが解決したことに、兄弟から祝福されたけれど、カラ松の悩みは一生消えることがないまま、そして誰にも喜ばれることがないまま、共に生きなければならなくなったのです。
おしまい。
 
再追記:もしドブスが兄弟によって(あるいは世の中によって)殺された場合、それはすなわち他者によるカラ松の自己愛の否定という図式になり、カラ松は自分を愛することも許されなくなります。逆に、何事もなく消えてくれていたら『あれはifの世界だったんだな』と勝手に納得できるんですけどね。世の中怖いですよね。